2020年4月25日土曜日

テレワーク

 コロナウイルス感染拡大で,ついに今週から大学はテレワークに突入した.大学という組織に務めて,初めてのことである.通常は裁量労働であるが,来るなと言われると,その環境が十分に整っていないことがわかる.少なくとも,大学のオフィスの計算機と手持ちの計算機が,管理データの意味で同期していなければテレワークにはならない.
 やったことは,大学の研究室のサーバに  ssh 接続し,デスクのマシンまでポートフォワードする.さらにファイル共有設定で,ファイルの出し入れを可能にする.そこからさらにポートフォワードして,プリンタ管理pcやストレージにも入る.まさに,匍匐前進ともいえる.  久しぶりに shellコードを書いて,利用環境をととのえるのもまた楽しい作業でもある.
 次にOS のバージョンが違うことで,使えないソフトもある.これでは結局大学に行かなければ仕事にはならない.そこで,貯まった消費税還元ポイントを使って中古のmac mini を購入した.これを当面は自宅のサーバにすることとした.OSは MacOSX Yosemite で, Catalina 移行で使えなくなったソフトも使える環境を残してしておくこととした.逆に大学からもこちらに入ってこれるように設定をする必要があるが,それは特に問題はないだろう.
 こんな状態がいつまでつづくかはわからないが,これで自宅で仕事をするのも悪くない環境になるような気がする.

2020年4月11日土曜日

雑感

私の周辺で言えば、あれだけ人が国内、世界中に移動を要求されてそれに応じ、本来の業務に携わらない人が多く、本務が空洞化していると感じて、それに批判的な立ち位置でいました。それに対して、今、逆に移動しなくても直接対話ができず、対応すべき人が来れない状況で、あたふたしている人の姿をみます。一体何が違うのでしょうか? 留守の間に黙って結果を出してくれていた人がおらず、当たり前と思っていた成果が出てこない。それが致命的だと言うのです。実験室をクローズされたら困るとも言います。しかし、自分のあり方を変えないと、結局、枯渇しそうなインフラを占有してしまいます。世の中の医療インフラを崩壊させないことは一人一人の責任で、あらゆる必要な人に残さないといけません。
今、必要なことは歴然としています。物理的に人が合わないことです。私は、教育を除いて、それが致命的だとは感じていません。そうなるようにこれまで図書館機構でもサポート体制を整えてきてもらいました。幸いにも、職場の大学はVPN接続なしでも文献検索は可能となっています。自宅待機、リモート業務になった時、これがどれだけ意味を持つか、分かっている人は少ないと思います。分散を可能にすることは、中央で全てを抱え込まず、同期せずに時間分割でやり取りすることです。クラウドでもいいですが、別に必要なデータだけ送っても問題ありません。縦の流れでいらないことを求めてきた組織の無駄が、今回明らかになるだけです。
研究室では、既に構成員の計算環境は自宅から可能なように設定をしてもらいました。新しいスタッフが幸いにも長けて、発想力がありました。だから、暫く、方法論を変えて見直す機会にシフトしただけです。そんなに集まってする仕事があったかと疑問に思ってもらえればいいです。研究室では、理論、計算、実験のいずれか二つの一致を見て議論すると言い続けてきました。でも、皆さん理論を避けます。私は、今が良いチャンスと思うばかりです。それだけです。震災と大きく違うのは、世界中が同じ状況だと言うことです。何も自分だけがそこで不利にあるわけではありません。逆に、誰もが考える時間を得ていることの競争だと思います。
心を落ち着かせて、すべきことをして欲しいと願っています。

2020年4月5日日曜日

プレプリントの面白さ

プレプリントの意味は速報だけで無く、多方面の観点を提示する事であって、現在の確定を残すことでは無い。作為でなければ間違いがあっても残せば良い。そして、修正を合わせて残していけば良い。論文誌は、最終的に未来へ残す物をキュレーションするが、それが科学の今の可能性を決める物では無い。要するに、論文誌は現状の中心的課題の、現在の技術、理論、計算による論証の正当性を保証するだけであって、当然、将来ひっくり返ることはある。でも、それが健全な科学の活動である。
ここ10年、ある意味既存の考えに盾突き、その研究分野でほぼ干され、哀れみの目で見られ、実証しろとファンドに圧力をかけられた。企業研究費も切られた。助手の頃から途切れる事が無かった科研費獲得も閉ざされた。分野を変えてステルス戦法で獲得するしかなく、結果的にすり減る状況にあった。
これが、憧れた科学技術の世界とは信じたくなかったことから、それを確かめるために学術情報流通のあり方の議論に、図書館、図書館機構の立場から、研究者の立ち位置を維持して加わって来た。これは、自分の精神への補償行為でもあったと思う。この間に得た知識と理解を次の世代に残していくことが、平時の小ネタ稼ぎで成長しない、する気もない研究の世界を改善すると信じて来た。このように思い至った頃に、ジャーナルでは対処できない世界の天変地異が生じた。
現場の危機迫る中で身を削って行う実践報告に、証明せよ、実証しろと迫る研究者の世界は、どこに立ち位置をとっているのだろうか。前例からの演繹は、ローカルにしか、一時的にしか通じない。他を責める前に、自ら実践するあらゆるレベルの活動が、プロの世界のネットワークの健全性では無いか。科学がポピュリズム、報酬にすり寄る悪魔の扉が開く時、不幸が生まれる。その結果、多くの命が奪われる。データの速さ、量、多様性,そして透明性を求める事が大域的な対応に意味を持つ。ジャーナル的、モデルのピンポイントの正しさの検証、既知のモデルありきの重箱つつき、でIFなどとお祭りをしていても仕方がない。Top10%? 何の意味があるのか?自らの評価を上げることに明け暮れた研究者、結託して来た業界が、今、何ができるのか? 全く意味を為さない行為であろう。全てを投げ出して、後の世界を変えてみろ!
幸か不幸か、10年前に立ち上げた研究はほぼ結論を得て、もう誰も手が出せないところまで来た。そんな時に届いたのが科研費採択の通知。これは基礎科学、技術への評価でも支援でもない。結果が見えているものにしか支援しない今のあり方は、もう終わったシステムだろう。この支援を終える頃に、研究者の世界から引退する。それならば、もう一度冒険してみようかと思う。